ほがらか文庫

ひとりよがりの読書記録

ほがらか文庫053:「子どもへのまなざし」佐々木正美著

私のまなざしが、お腹のわが子へ向かっていることを顕著にする選書となりました。

およそ20年前に出版された本です。

図書館に寄って手に取ると、その劣化の具合から、また今も貸出中になっていることからもわかるように、長い間たくさんの方に読まれてきた良本です。

著者のオリジナルなメソッドが誇張されるようなことは決してありません。

人間として、大人としての健全な生き方が、わかりやすく示されています。

 

この本の中で、私が特に大切だと感じた部分を2カ所 引用します。

 

① たいせつなことは、子どもの望むことを望んだ通りに、どれくらいしてあげられるかということです。…その結果、過保護にしてしまう、…そんなことはぜったいないのです。…おんぶといったとき、おんぶしてもらえる、だっこといったとき、だっこしてもらえた子どものほうが安心して、自分を信じて自立していくのです。

 

② 自分自身が幸せになれないと、人の喜びを喜ぶことができないし、人の悲しみを自分の悲しみにすることはできません。…家庭で自分の子どもに思いやりの心を育てようと思えば、親自身が、親戚、近所の人、友人やそのほかの人の喜びを、本当にいっしょに喜ぶことがだいじなことです。

 

①については、「過保護」の考え方が変わりました。どんなに子どもの望みをやってあげようとしても、すべてに応えることはできないだろう、との補足もあった上で、言われています。

 

②につては、但し、が必要です。親の幸せ、つまり自分の幸せとはどういうことかを定めておかないと道を間違えます。ここで著者が言う幸せとは、「相手の幸せのために自分が生かされていることが、感じられるときに味わえるものです。…自分の幸せばかり追求することによって得られる幸せなど、本当の幸福ではけっして、けっしてないのですから。」

 

このふたつのメッセージからわかるように、この本は、「子どもへのまなざし」から浮かび上がる、大人としての生き方や、現代社会の問題を読者に投げかけます。

子どもに直接関わることがなくても、ぜひ手にとっていただきたい1冊としてほがらか文庫に置くことにします。

 

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ほがらか文庫052:「赤毛のアン」モンゴメリ著

赤毛のアン」と言えば、高校生のときに親しくしていた先輩(男子)が帰り道に、

「僕は“赤毛のアン”のような女の子が好きだ!」と言っていたのを思いだす。

当時、“赤毛のアンのような女の子”のイメージがひとつも浮かばなかった私は、

「ふ〜ん、そうなんだ。」とくらいにしか答えられなかった。

だからといって、そのあと私はこの本をすぐさま読んで、“赤毛のアンのような女の子”を目指そうとはしなかったのだが…

 

それからおよそ20年の時を経て、今、“赤毛のアンのような女の子”のイメージが私の中に浮かび上がってきた。

 

ーーーーー

「分別があるってたいしたことには違いないけれど、あたしはそうなりたいとは思わないわ。(中略)いまのところじゃ、だんだんと分別がついてくる気がするのよ。」

 

アンの人間像を追いながら、終盤に差しかかってこのセリフを読んだときに、それまでは“少女だったアン”の物語ということをやっと理解できた。そしてこのセリフのあたりにきたときには、もうアンは大人へとだいぶ成長しているのだということがわかった。

 

 ここまで読み進めなければ、アンの全体像が掴めない私は、もうすっかり分別がついた大人になってしまったのだなあ、と少女アンをうらやましく思う。“赤毛のアン”のようになることは、私にはもうできそうもない。

 

ーーーーー

「一日一日と重なってゆく日々は一年と名づけられたネックレスに連ねられた、黄金の玉のようにもアンには思われた。」

 

こんな日々を、今年は重ねてゆきたいと思う。

 

英語の原文は以下のサイトで全文掲載されている

ANNE OF GREEN GABLES (Project Gutenberg)

 

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ほがらか文庫051:「まちの本屋」田口幹人著

まさか半年前に読んだ本の舞台を訪ねることになるとは思いもよらなかった。

 

ディーラーの営業さんから詐欺のような電話を受けてから数ヶ月。いつだか車屋さんで書いていた東北旅行プレゼント企画に本当に当選していた。まったく詐欺ではなく、1泊2食の温泉ホテルと、往復の新幹線をペアでいただいてしまった。

 

いくつかの場所を選べたが、夫の100名城巡りの穴を埋めるべく、岩手県へ。目的はそれだけ。半年前に読んだ本のことはすっかり忘れていた。

 

盛岡城に向かうバスの中だったか、私の目の前を「さわや書店」というワードが通過した。一瞬「?」と思ったものの、そのワードが私の記憶のどことつながっているかはまだ思い出せなかった。

 

盛岡城から盛岡駅に向かって歩いていて、その盛岡駅の建物に堂々「FESAN」と記されている。

フェザン…

なんだか聞いたことがある…

私の早とちりか…

 

あっ!

ここは、さわや書店の本舞台!!

まさに、帰りの新幹線に乗るために盛岡駅に向かっている道中で、記憶がつなかった。

 

慌ててスマホで検索するも、どうも本店のある商店街は抜けてきてしまったようだ。どうやらフェザン店が駅ビルの中にあるらしい。帰り際の幸運。もう次にいつ盛岡に来られるかわからない。二度と来ないかもしれない。私はさわや書店に立ち寄ることができた。

 

本が好きなら、本屋も好きでしょう。

盛岡から全国へベストセラーを出す地元の書店。

末長く頑張ってほしい。

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ほがらか文庫050:「竜馬がゆく(四)」司馬遼太郎著

先日会った中学生。

歴史が苦手と言うものだから、

「私もそうだったけれど、今のあり様を理解するためには歴史を知らないとわからないよ」

なんて熱く語ってしまった。

どれほど伝わっただろうか。

 

事実、私はあらゆる授業の選択において、歴史を避けてきたがゆえに、今こうして長編を読みながらなんとか歴史の尻尾を捕まえようとしている。

 

昨年の夏に1巻を開いてから1年以上を経て全8巻の半分まで読み終えた。

言葉と無知識の波にもまれながら、4巻にしてやっと、捉えどころがわかってきたので、ここに書こうと思う。

 

小説のところどころに、司馬遼太郎の解説が入るのがわかりやすい。

4巻には、「切腹」の文化について触れられていた。今となっては理解しがたいが、150年前まではこういう覚悟で日本男児が生きていた、という空気を知っておくことは、諸外国から簡単に戦いを仕掛けられなくしていたことへの理解も深まる。

 

「覚悟」

 

強い言葉である。

 

私のお気に入りの場面は、向こうから歩いてくる新撰組の面々のど真ん中を、道端の子猫を拾い、あやしながら堂々歩いていく竜馬の姿。あまりの拍子抜けな竜馬の態度に、新撰組の者たちは刀を抜けない。

 

この出来事に関して竜馬は、「気」という言葉を使って説明していた。完全に戦う気を無にしているのである。竜馬の覚悟と、新撰組の覚悟は相入れないというのをものがたる、竜馬らしさを如実にする一幕だ。

 

ずいぶん真面目に書いてしまった。

さて、ここから後半。

もう少しペースを上げていきたい。

 

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ほがらか文庫049:「蝶が飛ぶ 葉っぱが飛ぶ」河井寛次郎著

夏から秋へ

季節の変わり目の楽しみは衣替え。

半年ほど仕事もせず、ラフな格好をしていたので、少し気持ちを引き締めてキチンと装いたいと思っている。

そんな考えから、用もあって、先日オーダーメイドのスーツを注文してきた。

私の体に合わせた寸法のジャケットとパンツは仕上がりが楽しみだ。

もちろんそれはハンドメイドではなく機械が仕立てていく。

 

作陶家にもかかわらず、河井寛次郎は機械から生み出されるモノを否定していない。そのことに驚いた。

彼曰く、機械を作ったのは人間なのだから、と。

そんなにあっさりと機械を肯定的に捉えられると、返ってこちらの力が抜けてしまう。

暮らしから自ずと発生してきた民藝品ならば、暮らしの道具を作り出す機械も民藝品になりうるのだろうか。

手間暇かけて作られる諸国の民藝品を集めることがひとつの楽しみでもあるが、機械で作られたモノをどのように捉えるかは、私に与えられた問題提起である。

 

作品も素晴らしいが、紡がれた言葉の数々も、生きること、暮らすことに力強くアプローチしている。

とても感銘したので、現在このブログの副題に置いてある言葉は、この本から引用した。

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ほがらか文庫048:「おらおらでひとりいぐも」若竹千佐子著

国語というのは、自分の気持ちや考えを言葉にする力をつけるための教科なのかもしれない。

と、作文や読書に勤しむ夏休みの子どもたちに接して思った。

 

「言葉にできたときにはその問題は解決している」とどこかに誰かが書いていたことを思い出す。

 

作文に悪戦苦闘しているのは子どもだけではない。

大人だって、いつも探している。

自分の言葉を。

これから行く道を。

 

だから、わたしは本を読む。

そして文章を書く。

 

ただ、家の中で座ってばかりいては言葉は腑に落ちない。堂々巡りすることが多い。

重い身体をえいっと持ち上げて、外に出よう。

そして、ひとりで歩こう。

 

流行りの本は読まない立ちへそ曲がりの私が、老いを描いたテーマと、著者が最年長で受賞した作品で話題なったという、2つのフックでこの本を読んだ。

 

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ほがらか文庫047:「読んでいない本について堂々と語る方法」ピエール・バイヤール著

 ひとりひとりの人生の小さな物語を大切にしたい。

 

日本人がなぜハワイが好きな人が多いのか。

それは、あのビーチへの憧れだけではない。

多くの日本人がハワイへ行って、幸せなひと時を過ごしたからだ。

世界中で様々な踊りがある中で、日本でフラダンスを踊ろうとするのか。

それは、ハワイでフラダンスを観て楽しんできたからだ。

日本で聞くにはどうしても合わない(と私は思う)ハワイアンミュージックを流す。

それは、ハワイでの自分だけの幸せな物語があって、それを思い出すためだ。

 

たとえば、毎日使うごはん茶碗にだって、小さな物語がある。

母の日に母たちと陶器市に行って、そこで見つけたお気に入りのお茶碗だとか。

ご近所で陶芸教室を開いている先生が作陶したお茶碗だとか。

 

1本の焼酎にも物語がある。

夏休みの旅行で行った熊本県人吉市の酒造で求めてきた。

閉店時間の酒蔵に飛び込んでから小一時間。

親切ていねいに焼酎の成り立ちを説明してくれた。

それだけではない。

あの町の雰囲気。旅館の趣き。球磨川のたたずまい。

それは、私だけの人生の小さな物語。

 

ふだんはそのことを多く語ろうとはしないけれど、

誰もが心の本棚にそっと並べているであろう、

ひとりひとりの人生の小さな物語を、

大切にしたい と私は思っている。

 

そして時にはその中のどれか1冊でも、数ページでも、

誰かと話し合えたらいい。

 

たとえ目の前に置いてある本を読んでいなかったとしても。

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