ほがらか文庫038:「〔完全版〕佐伯チズ式 美肌バイブル」佐伯チズ著
年末年始にゆっくりお休みをいただいたので、なんとなくお肌のお手入れを念入りにしてみようと思ったんです。
それで久しぶりに”佐伯式ローションパック”を朝晩の洗顔後に施していたら、お正月を迎える頃には、ふっくらもっちり素肌になっていました。
という理由で、ほがらか文庫に異色の1冊が加わります。
どういう経緯で佐伯チズさんに辿り着いたのかはもう思い出せないのですが、手元にあるのが2011年の初版本で、おそらくスキンケアに興味をもった時期とさほどズレないように思うので、約5年くらい前からこの本を参考にしてお手入れしています。
女性として生きるためには、自分にあったスキンケアを確立することは必須。
私はこの本で佐伯チズさんに教えていただいて取り入れるようになってからは、化粧品選びで無駄にさまようこともなくなり、自分のスキンケアにも迷いはなくなりました。
と言いつつ、お肌のトラブルを感じていなかったことにかまけてローションパックをしばらくサボっていたので、この年末年始にその良さを改めて実感できて良かったです。
今年も自分らしさを輝かせていきたいですね。
ほがらか文庫037:「文章心得帖」鶴見俊輔著
鶴見俊輔さんの他の著作を目当てに図書館に行ったのですがあいにく貸出中で、第2希望のこの本をとりあえず持って帰ってきましたが、もしかしらた第1希望よりも良かったのかもしれません。
今年出版された本で、川上徹也さんの「こだわりバカ」というのがあります。
例えば飲食店の宣伝文句で「こだわりの◯◯」という、あってもなくてもいい決まり文句を、川上徹也さんは“空気コピー”と呼び、人の心をひとつも動かさない、何の役割も果たさない言葉と一蹴しています。
それは鶴見俊輔さんが「文章心得帖」のはじめに、文章を書くための第一歩として、“紋切型をつきくずす”ことと同じ主張です。
鶴見さんはこの紋切型と取っ組み合い、格闘することが文章を書くことの重要なポイントであると教えています。
さらに“あがきを伝える文章”こそが究極的にいい文章であり、“きれいに割り切れているというものは、かならずしもいい文章ではない”と言われています。
この本を読み終えてからしばらく、文章を書くことに向き合えないでいました。
さて、どう格闘しようか、どこを選びとろうかと、ぼんやりと巡らせながらも気が乗らないでいたのは、戦いから逃げていたのか、はたまた、何か思いつくことがなかったからでしょうか。
“文章を書くことは他人に対して自分が何かを言うという、ここで始まるものではない。実は自分自身が何事かを思いつき、考える、その支えになるものが文章であって、文章が自分の考え方を作る。だから、自分にはずみをつけてよく考えさせる文章を書くとすれば、それがいい文章です。” (P.23)
ほがらか文庫036:「シリコンバレー式 自分を変える 最強の食事」デイヴ・アスプリー著
巷で噂(?)のバターコーヒーを知っていますか?
中年に近づくと何かと健康の話題に花が咲き、最近その中で浮上したキーワードが「バターコーヒー」でした。
私が本好きなことを知ってか、その謎の飲み物の正体が、そっと私の職場の机に置かれていたので読んでみました。
さあ、私がこの「バターコーヒー」とやらを読み解きます!
ポイントは4点。
①バターコーヒーだけを飲んで痩せることが著者の主張ではありません!
著者はこのバターコーヒーを朝食にして、そのあと1日の中でどの時間帯に何を食べるといいのかも明確にしています。またこのプログラムをまず2週間続けることで、体をリセットさせ、その後自身の体質を知るために調整していくという一連の流れの中で食事法を提唱しています。ですので、バターコーヒーだけを飲んで痩せることが著者の主張ではありません!
②セレブやトップアスリートにこのメソッドが広がっていると書いてありますが、コーヒーに入れるべき、グラスフェッドバターは庶民がデイリーユースにはできない価格帯。つまりセレブやトップアスリートにしか継続はできません!
グラスフェッドバターとは、穀物飼料ではなく牧草のみで育てられた牛から作られたバターのこと。この商品を検索すればすぐ分かりますが、一般家庭で今までの朝食をやめてこのバターコーヒーだけにしたとしても大赤字になるでしょう。さらに著者は、お肉としていただく牛もグラスフェッドのものを推していますから、2週間のプログラムがたやすくできるものではないとすぐわかるはず。
③安心すべきは、この著者は結構まともなことを言っている!
なぜなら、この本で食べ方や食材を並べるごとに、これが「体に合う人もいれば合わない人もいる」と書いているからです。万人がバターコーヒーで痩せたり健康になったりするなんて、そんなことはどこにも書かれていません。
④この本から学ぶべきは、著者自身の人間の体に対する探究心!
これに尽きます。結局は自分で色々試してみて、体に合う食べ物を認知していくこと。もっと自分の体の仕組みを知っていくこと。だってホルモンは肝臓で作られていることを知っている人がどれほどいるでしょう。著者がこれまで体験してきたあらゆるダイエット方法を真似することはできませんが、こういう風に自分や家族の体に探究心を持つことを私はこの本から学びました。
いつもとは違った切り口で、一気に書き上げた千文字でした。
ご参考まで。
ほがらか文庫035:「モモ」ミヒャエル・エンデ作
三人のきょうだいが、ひとつ家に住んでいる。
ほんとはまるですがたがちがうのに、
三人を見分けようとすると、
それぞれたがいにうりふたつ。
一番うえはいまいない、これからやっとあらわれる。
二ばんめもいないが、こっちはもう出かけたあと。
三ばんめのちびさんだけがここにいる、
それというのも、三ばんめがここにいないと、
あとの二人は、なくなってしまうから。
でもそのだいじな三ばんめがいられるのは、
一ばんめが二ばんめのきょうだいに変身してくれるため。
おまえが三ばんめをよくながめようとしても、
見えるのはいつもほかのきょうだいの一人だけ!
さあ、言ってごらん、
三人はほんとは一人かな?
それとも二人?
それともーだれもいない?
さあ、それぞれの名前をあてられるかな?
それができれば、三人の偉大な支配者がわかったことになる。
三人はいっしょに、大きな国をおさめているー
しかも彼らこそ、その国そのもの!
そのてんでは三人はみんなおなじ。
このなぞなぞの答えがわかりますか?
大人だって児童書を読んでもいいのです。
大人だからこそ児童書を読むといいものです。
子どもだった私がこの本を読んだら、どんな思いを巡らせたのでしょう。
時間をケチケチすることで、ほんとうはぜんぜんべつのなにかをケチケチしているということには、だれひとり気がついていないようでした。じぶんたちの生活が日ごとにまずしくなり、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを、だれひとりみとめようとはしませんでした。
大人になった私たちには鋭く突き刺さるメッセージです。
けれど時間とは、生きるということ、そのものなのです。そして人のいのちは心を住みかとしているのです。
人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそっていくのです。
この本の結論です。真理であり、核心です。
心が震えます。
児童書らしいファンタジーと色鮮やかな情景描写も堪能しながら、三人きょうだいについて考えてみませんか。
そして、「時間とは生きるということ」を語り合いませんか。
灰色の男たちに時間を奪われる前に・・・
ほがらか文庫034:「台所のオーケストラ」高峰秀子著
いつの日か誰かにお料理の本をプレゼントしたいなあと考えながら、それにふさわしい本と、差し上げるタイミングを待っていました。
主婦にとってお料理のレシピは欠かせない知恵袋。
でもプレゼントとなると、相手の嗜好にそぐわないとかえって迷惑になってしまいそう。
また、一般的なレシピ本は大きなサイズでボリュームがあります。
さらに言うと、たいがいのレシピはネットで検索できるご時世。
そんな私のこだわりにぴったりの1冊が見つかりました。
読みものとしても、実用レシピとしても楽しめて、しかも文庫サイズ。
お世話になった友の門出に贈りました。
家族というオーケストラで、名指揮を取られんことを祈りつつ。
ほがらか文庫033:「モオツァルト・無常という事」小林秀雄著
この本との出会いはこちら(http://s.ameblo.jp/room-hidamari/entry-11990289164.html)に綴りました。
こういう本の選び方もできる時代になりました。
みなさんも、機会を狙って気になる著名人に直接オススメの本を聞いてみるといいですよ。
その答えを惜しむ人はいないはず。
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たった5ページの「無常という事」を題名とする散文のなかには、過去と未来をつなぐ「今」という時の捉えどころのない感覚をわかりやすく表している。
またその中で、川端康成が「生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」と言ったことに対して、「多くの歴史家が、一種の動物に止まるのは、頭を記憶で一杯にしているので、心を虚しくして思い出す事が出来ないからではあるまいか。」と思索を深め、「常なるものを見失った」現代を批判している。
この文章はおよそ70年前に書かれているが、今読んでもまったく古びない重要な問いを私たちに投げかけている。
さて、過去と未来の間にある「今」とはいったい何か、ここ数日私の頭を悩ませるテーマである。それも「心を虚しくして」いては答えに辿りつけないのだろう。
他15編、読み応えのある1冊である。
ほがらからか文庫032:「読む力・聴く力」 河合隼雄著 ; 立花隆著 ; 谷川俊太郎著
ある日、歴史小説が好きな夫がめずらしく私好みの本を持ち帰ってきました。
久しぶりに見る、この3人の著者の名前。
それぞれの著作は、中学から大学時代によく親しんだので、同窓会で久しぶりに会ったような懐かしさと、さて今彼らは何を語るのだろうかと言う好奇心とが湧いてきた始めの1ページでした。
この本は、ある時の講演会をまとめたものです。
「読む」「聴く」という人間の持つ能力を、それぞれの経験を踏まえて縦横に語らっています。
たとえば、河合隼雄さんの「聴く」という本業、その態度。
それは、児童文学で有名なミヒャエル・エンデの「モモ」の中で、主人公のモモが住み着いた洞穴で、周りの人々の話を聞いて、聞いて、それで彼らの問題を解決していく。
河合隼雄さんのお話は、ふと「モモ」を思い出させるようであり、私自身の「聴く姿勢」をあらためて見直したくなりました。
立花隆さんの、100冊読んで1冊本を書くという、インプットとアウトプットのバランスや、「わかる」という意味での「聴く」というお話は、日々の読書記録をこのように文章にしてている私としては、身の引き締まるようなお手本になりました。
そして谷川俊太郎さんの詩が綴られ、3人の対談へと話は深まっていきます。
もう絶対に実現することのない、この巨頭3人の貴重な語らいは、いつまでの私の「読む力・聴く力」を引出してくれるに違いありません。また大切な1冊が加わりました。